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Windowsの歴史を紐解く過去の記事
【1990年1月】
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田中亘 |
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■敗れさった窓たち
Windows への道のりは、決して平坦ではなかった。マイクロソフト社が Windows を発表した当時から、多くのソフトハウスが独自の「窓」をデザインしてきた。アメリカでは、1980年代の後半には DESQview という独自のウィンドウシステムが支持されていた。しかし、日本では数多くの「窓」が敗れ去った。
名前すら忘れてしまったソフトも多いが、デジタルリサーチ社のGEMを記憶している人はいるだろうか。同社は、マイクロソフト社に奪われたOS市場をマルチタスク機能を売物にしたコンカレントCP/Mによって奪回しようとしたが、時すでにMS-DOSの牙城は厚く立ちはだかり、新たな競合になることすらできなかった。その後、MS-DOSの軍門に下る形で登場した「窓」がGEMだった。GEMは、MS-DOS上で Macintosh のような環境を提供するウィンドウとアプリケーションソフトの集合体だった。GEMDROW,GEMWRITE,GEMPAINTというアプリケーションがセットとなり、それぞれが作画、ワープロ、ペイントソフトとして機能した。しかし、他のソフトハウスによるアプリケーション開発などの援助が得られず、GEMはバージョンアップを続けることなく市場から自然消滅する形になってしまった。
アメリカ産以外にも国産ソフトで「窓」に挑戦したソフトハウスもあった。VJE-βで有名なバックス社である。同社は、ConCur98というオリジナルソフトでMS-DOS環境のマルチタスク化に挑戦した。ConCur98は、MS-WINDOWSのようなグラフィックの窓を表示するのではなく、WINDOWS/386のように複数のプログラムをマルチタスクで動作させるために、一画面をまるごと「窓」として切替えて利用できるように設計されていた。しかし、ConCur98は早すぎたソフトの宿命のように、当時のメモリー環境の限界により、サイズの大きなプログラムやVJE以外の日本語入力に対応できないなどの問題から、市場から忘れ去られていった。
ウィンドウシステムの難しさは、アプリケーションソフトのビジネスとは違い、単独では成立しないことに起因している。MS-DOSの環境を複数用意するConCur98のようなタイプのウィンドウでは、動作させるアプリケーションソフトとの相性が、ウィンドウソフトの是非を決定的に左右する。それに対して、GEMのように独自の「窓」を用意するシステムでは、独自性ゆえに動作ソフトの数が重要な要素になってくる。PC-9801シリーズの成功が、その対応ソフトの多さに象徴されるように、「窓」の成否の鍵を握っているものも、同様にソフトの一語に尽きるといえよう。
乱立する「窓」の中で、どうしてWindowsが勝利したのだろうか。その一つの答えは、「デバイスドライバ」にあった。1980年代の後半は、WordPerfectやLotus1-2-3などのMS-DOS用ソフトを購入すると、膨大なプリンタドライバを収録したフロッピーディスクが同梱されていた。ユーザーはこの中から、自分が使っているプリンタに適したプリンタドライバをセットアップしなければならなかった。
Windowsはこのプリンタドライバをはじめとした各種のデバイスドライバの登録という泥臭い仕事をすべて引き受けることにした。そうすることで、独立系ソフトハウスの賛同を得てアプリケーションの数を増やしていったのである。もちろん、それ以外にも成功の要因はいくつもあるが、「ドライバを制するものがOSを制する」という一つの例を示したのは、マイクロソフトとWindowsだった。
(著者:田中亘 wataru@yunto.co.jp)
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